shin故郷を行く!!
第2回 橋本市南馬場
橋本市南馬場は市の南西部にあって、北は紀ノ川、南は国城山(くにぎやま)があり、そのふもと
の地区で、人口約1000人です。前回学文路で紹介した学文路天満宮のある所でもあります。
南海高野線紀伊清水駅と学文路駅の中間にあり、近年国道370号が改良され、行きやすくなり
ました。
雪景色のきれいな、学文路天満宮
郷土の義人 戸谷新右衛門
八代将軍・徳川吉宗の治世、全国的には、すでに年貢米の取り立てに讃岐枡の使用は廃止され、容量の少ない
京枡が使用されていました。 しかし高野山領においては京枡が変更されぬまま、さらに付加税としての差口米も
取り立てられ、高野山領の村々の農民たちは、重税に苦しんでいました。伝承によれば、享保年間、高野山領内
を代表して島野村(現・南馬場)の庄屋の戸谷新右衛門は、高野山に嘆願を行い改善を求めましたが、帯刀など
の格式を奪われ、止むに止まれず江戸幕府に越訴(おっそ)を行いました。そこで幕府は、高野山に対して不正
な讃岐枡禁止と付加税廃止を命じました。享保七年、新右衛門は越訴の罪の刑期を終え帰郷しましたが、高野
山に送られ極刑に処せられて生涯を閉じたと伝えられています。この事件について史料は少なく、明確な実証は
なされていません。しかし、明治の地域住民が民主的観点から新右衛門を掘り起こし、自由民権運動家・小室信
介によって全国的に紹介され、中里介山の「高野の義人」などの文学作品により、広く大衆に知らされるようにな
りました。不正枡廃止・付加税廃止の要求を持って越訴した新右衛門。彼の墓は紀ノ川左岸の堤防近くの畑の片
隅にあり、県指定の史跡となっています。
戸谷新右衛門の墓 約45年前に地元の有志により記念碑が建てられた。(写真 右)
南馬場は私の生まれた学文路からすぐ近くで(歩いて5分ぐらい)よく遊んだ場所でもありました。
紀ノ川から見た南馬場 紀ノ川堤防を利用して大きな広場がつくられた。
さくらづつみと別名が付けれらている緑地広場。将来、橋本の桜名所になっていくのか?
次回は橋本市清水を紹介する予定です。