shin故郷を行く!!

第1回橋本市学文路(かむろ)<追記・改訂版>

  橋本市学文路は市の南西部にあって、北は紀ノ川が流れ、南は山が迫っており、その少しした高台を南海高野

線が走る。人口約1800人の地区です。大阪のミナミ・なんばから橋本又は高野山・極楽橋行きの電車に乗ること約1

時間10分で着く事が出来ます。学文路駅の普段は1時間に2本の電車が通るだけで、ほとんど地元の人しか利用

しないが、学文路大師の祭りの日は(年に数回21日に行われる)小さな駅が人でごった返す。あとは有名なのが、

受験シーズンには「学文路駅入場券」がそうです。全国的にも有名で、南海の各主要な駅で5枚入り750円です。

この入場券は近くの学文路天満宮で御祈祷を受けております。天満宮はもちろん知ってのとおり「学問の神様」であ

                る藤原道真公がまつられています。

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           学文路駅の駅舎                   学文路駅入場券。受験シーズンにはお守りとして大好評!!

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千年の歴史ロマンをたずねて

学文路刈萱堂

 学文路の有名な所は沢山有ります。その一つ刈萱堂(かるかやどう)というお寺があります。刈萱堂の開基は明ら

かはありませんが、平安時代には既にあったとされています。その証拠にこの寺には「石童丸物語」という今から千

年以上前の昔話があります。筑紫の国(福岡県)の守護・加藤左衛門繁氏は、花見で出会った千里(ちさと)の美し

さのとりこになり、これに怒った妻の桂子(かつらこ)が、千里を殺すように家来に命じました。繁氏は妻が千里を殺

したと聞き、自分の罪深い行為を反省して高野の僧となりました。 家来の機転で難を逃れた千里は、播磨国(兵庫

県)に移り住み石童丸を産みました。石童丸が14歳の春、風のたよりに父が高野山にいるという噂を耳にした母子

は、高野山のふもとの学文路の里に来ました。しかし、宿屋の主人・玉屋与次郎兵衛から高野山が女人禁制である

と聞き、石童丸ひとりが高野へ登ることになりました。寺を捜し歩いて三日目、奥の院「無明の橋」(むみょうのはし)

の上で一人の僧侶に出会いました。父を尋ねる石童丸の話に僧の顔が変わりました。この人こそ出家した繁氏・・・

刈萱道心だったのです。石童丸の話に刈萱の心はちぢに乱れましたが、厳しい僧のおきてで親子の名乗りは許さ

れません。刈萱は、込み上げる感情をこらえ「そなたの父は先日亡くなった」と偽り、泣きじゃくる石童丸を下山させ

ました。玉屋で待っていたのは思いもかけぬ母の死でした。病弱と旅の疲れでわが子の帰りも待てず息を引き取っ

ていたのでした。涙も枯れ果てた石童丸は再び高野に登り、親切にしてくれた刈萱を頼って弟子となり、生涯親子の

名乗りをすることなく心静かに御仏に仕えました。石童丸物語は「平家物語」の中の平維盛(たいらのこれもり)の従

者・石童丸がモデルと言われています。この悲話は室町時代以降謡曲や浄瑠璃、琵琶歌、演劇などで全国的に広

まり、高野参詣道に位置する学文路の地で再現され、庶民の信仰を集めました。この物語にまつわる物品があり、

「夜行の玉」やそして「人魚のミイラ」があります。人魚のミイラは滋賀県の蒲生川で捕獲されたと言われています

が、一番の謎とされています。

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                                刈萱堂(平成に入って大改修が行われた)

 

学文路の偉大な人物 水利の先覚者

大畑才蔵勝善

 

橋本市は、豊かな自然に育まれながら発展してきたまちです。とりわけ紀ノ川の豊富な水は、橋本市をはじめ周り

市町村の生活を潤いあるものにしてきました。この恵まれた水資源に着目し、その活用を考えた江戸時代の天才

的土木技師がいました。大畑才蔵勝善です。才蔵は寛永一九年(一六四二年)市内学文路に生まれ、十八歳で杖

突(つえつき=大庄屋の補佐役)、二八歳で高野内聞役(こうやないぶんやく=高野山の情報を藩に伝える役)と、

若年にして要職に就き各層からの信望を集めていました。元禄九年(一六九六年)才蔵五十五歳のとき、「和歌山

会所詰御用」を命じられ範に出任することになります。これ以後、彼の優れた才能は藩の事業を通して大きく開花し

ます。まず同年四月、添奉行・田代七右衛門に従って熊野地方を巡察したのにはじまり、翌年には六箇井(用水路

、和歌山市)の測量、伊勢松阪領(三重県)視察、越前新知行地(福井県)視察などで各地を精力的に歩いています

。そして元禄十一年、才蔵が手がけた大きな事業にひとつ、伊勢一志郡の新井(しんい=用水路)に工事が行われ

ました。紀州での才蔵の大きな仕事には藤崎井と小田井の開削があります。藤崎井は那賀郡那賀町(現 紀の川市)

藤崎から紀ノ川の水を取り入れる用水で、元禄十三に竣工し、潤した田は五十三村・七百九十町(約七.八二平方`b)

にも及んだといわれます。また、県下随一を誇る小田井は橋本市高野口町小田に取水口を持つ用水で、宝永四年(一七

〇七年)から工事が着工され、完成までに十年以上の歳月が費やされています。その長さは九里八町(約三十六`

b)に及び、およそ千町(九.九平方`b)の田を養ったといわれます。この他にも才蔵がたずさわった仕事は、名

高浜の塩田、亀池(以上海南市)、引の池(橋本市高野口町)、河瀬新池(橋本市)など多数におよび、その多くは今日もな

お、人々の生活を潤し続けています。多くの業績を残した才蔵は、「才蔵日記」などの記録類も多数残しており、学

文路にある才蔵の墓とともに県指定文化財に指定されています。

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この学文路の地で眠る大畑才蔵勝義の墓。地元の人間でさえ探すのを苦労しました。

 

学文路には他にも学文路大師や学文路奥の院などいろんないい所があります。最近は国道370号学文路バイパ

ス完成により、今まで車の行き来が困難なヶ所が解消されました。みなさん!一度来てみてはどうでしょうか?

 

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                               学文路大師                         学文路大師奥の院(小さい頃はよく遊びに行きました)

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    紀ノ川から学文路地区全体を望む

       次回は橋本市南馬場を紹介する予定です。