五新鉄道とは?・・・

どうして五新鉄道はできたのでしょうか?その経緯と歴史を見てみましょう!!

五新鉄道の経緯

 五新鉄道は阪本線とか五新線と呼ばれていました。日本有数の杉の産地である「吉野杉」。その集積地でもあった奈良県五條から吉野川(紀ノ川)を渡り、丹生川沿いに南下し、天辻峠を越えて阪本。そして、十津川沿いを南下し、和歌山県新宮に至るルートを予定していました。両端の都市から「五新」と名づけられました。戦前から吉野川や熊野川の流域は杉や檜の産出地として有名です。伐採した木材の輸送は筏流しに依存してきましたが、人力では増産にも限りがあり、安定した物流ルートを確保するためにも、鉄道の必要性があったと考えられます。しかし、国会議員の影響や一番の大きかった原因は戦争。戦後工事は再開するものの、国鉄や運輸省、地元代議士、近鉄、南海などが次々と介入。バスか鉄道かの利害関係が錯綜する中、阪本線の建設方針が二転三転してしまう。国鉄バスからJRバスの運行ルートとして使われていたが、2002年(平成14年)9月末をもって、JRバスは廃止されました。変わって、2002年(平成14年)10月1日より五條市(当時は五條市と旧西吉野村)から委託を受け、奈良交通がバスの運行を行ってきましたが、利用者数の減少と専用道のトンネルの老朽化に伴い、2014年(平成26年)9月30日をもってバス専用道の運行を廃止しました。現在は閉鎖され、通行できなくなってしまいました。


五新鉄道の歴史

1906年(明治39年)     陸軍参謀本部が国防線として測量を始めた。地元住民も鉄道建設に熱望をしていた。

1920年(大正9年)      五新鉄道期成同盟会を結成して国会へ陳情をする。

                 その後陳情を受けてか、本格的な測量が行われる。距離は約107キロ、総工費約2250万円と試算された。

1921年(大正10年)     全国鉄道網計画に五新鉄道が組み込まれ、国会で可決される。ルートは五條~野原~賀名生~城戸~阪本の賀名生ルートと
                 五條~二見~富貴~阪本の富貴(ふき)
ルートが検討される。

1922年(大正11年)     五新鉄道の第一期工事として五條~阪本間20.8キロが発表される。

1923年(大正12年)     予算案が国会通過、可決される。建設予算は約800万円。

※しかし、時が悪く、関東大震災とその後の経済不況で予算が抑制され、建設開始の足踏み状態が続く。

1924年(大正13年)     憲政会の加藤内閣発足し、新鉄道路線計画の事実上ストップをかけるが、周りの反発で復活する。しかし、新線は後回しに
                 された。

1927年(昭和2年)      新鉄道路線計画を推進派であった政友会の田中内閣発足し、五新線は翌年着工と突然決定する。しかし、昭和恐慌により
                 予算化実現せず。

1929年(昭和4年)2月    国会で建設案が両院通過翌年度に着工の方針が固まる。

1929年(昭和4年)6月    田中内閣総辞職。民政党の浜口内閣発足し、建設計画は中断する。

※その後も政権交代毎に建設再開と中断を繰り返される。

1935年(昭和10年)     鉄道省は「吉木線」吉野口~上市~熊野~木本(現 熊野市)間の実地調査を実施。

1936年(昭和11年)     吉野口~相可口(現 多気)間の「吉相線」の測量を実施。地元でも期成同盟会設立する。

※時期を同じく、橋本~恋野~富貴~阪本間のルート変更案も提示。「橋新線」という。各地区で鉄道争奪戦が繰り広げられる。

1937年(昭和12年)     鉄道省は五條~賀名生~城戸~阪本間23.5キロの賀名生ルートに決定する。工費は450万円。

1938年(昭和13年)     建設路線昇格が議決され、現地測量実施。

1939年(昭和14年)1月   五條~生子(おぶす)間の5.5キロが着工される。

1939年(昭和14年)3月7日 五條にて起工式が行われる。しかし、時は戦争という時代。鋼材などの建設資材が不足しており、極力鉄筋が使う量を抑えた
                 構造に工夫された。

1941年(昭和16年)     戦争により工費が削減され、ほとんど工事が止まる。

1944年(昭和19年)     戦争激化により全面工事中断する。

※終戦後、沿線関係者が工事再開の陳情を繰り返し行う。吉野熊野総合開発の一環として、五條~阪本間約24キロを建設路線とする。

1954年(昭和29年)1月   阪本線(五條~城戸間)11.7キロの路盤整備工事起工式が行われる。

1957年(昭和32年)     工事着工する

1959年(昭和34年)     阪本線(五條~城戸間)が完成する

1960年(昭和35年)     国鉄バス路線に計画案浮上。工事を中止する。近鉄が電化案を提案し、国鉄から引き継ぐ案も提案。バスか国鉄か近鉄か議論
                 絶えず。

1961年(昭和36年)     近鉄電化案は立ち消える。しかし、バス派と鉄道派は対立続く。

1962年(昭和37年)     鉄道建設審議会小委員会の仲裁裁定を受け五条~城戸間は当分の間バス路線使用に決定。ただし、城戸~阪本間開通後は鉄道
                 路線に切り替えて運行する事を約束。バス路線使用はあくまでも全路線が出来るまでの暫定使用という事で確認した。

1965年(昭和40年)     五條~城戸間をバス路線として運行する。鉄道軌道用の専用路線を使用して運転が開始された。

1967年(昭和42年)     城戸~阪本間起工式が行われ、着工する。

1971年(昭和46年)10月  五條~新宮間では最大の難所、天辻トンネルが長さ約5キロ、総工費約13億9200万円をかけて完成。

※その後、建設予算が国会で通過し、工事は城戸から着々とトンネルが建設された。

1979年(昭和54年)     城戸~立川渡(たてかわど)間が概ね完成。天辻トンネルへのループトンネルの建設に着手した。

1982年(昭和57年)     国鉄再建問題がクローズアップされ、さらに地方赤字ローカル線の廃止が打ち出され、ついに全面的に工事がストップした。

※ループトンネルは建設することなく、工事は中断され、廃止に終わった。

1987年(昭和62年)4月   国鉄から民営分割化され、国鉄バスからJRバスとして引き継いだ。時は平成時代に入り、マイカー時代、過疎化などで
                 利用者が激減する。
2002年(平成14年)9月30日 JRバス阪本線が廃止された。

2002年(平成14年)10月1日 五條駅~城戸温泉間はJRバスから五條市(当時は五條市と旧西吉野村)が委託して受ける奈良交通のバスが運行された。
                 (バス専用道路として利用された)
本数は約4~5便程度しか専用道路を走るのみで、ほとんどのバスは国道168号を走る。

※人口減少に伴い、利用者の減少。バスの運行の減便、さらにバス専用道内で最も新しい衣笠トンネルの状態が悪く、他の箇所も大幅な維持改修が必要となる。

2014年(平成26年)9月30日 バス専用道のバス運行は廃止され、国道168号ルートに変更された。バス専用道は閉鎖され、通行が出来なくなっている。

城戸~立川渡間は無残に残されたトンネルが続いているが、殆ど利用はされていない。1日も早く再利用をすべきだと思います。13億円も投じたトンネルもあり

ますから・・・。

全線の総工費はなんと、43億円!!国道168号の高規格化に資金を投じていたら、今どこまで完成していたであろうか?

立川渡~阪本間は幻のループトンネルと完成した天辻トンネルがあり、天辻トンネルは大阪大学の研究施設に再利用されている。一時は地元の名産の冨有柿の貯

蔵庫や
キノコ類の栽培場(西野トンネルにて実施中!)、ある大手酒メーカーがワインの貯蔵庫にすると言う話もあったが、立ち消えてしまった。

(やはり、コスト面の問題か?)

車が通れないのが残念です!! ほとんどまっすぐに作られているので、走りやすいと思うが、幅が鉄道の単線規格で作られているため通れない。

拡幅工事が必要。

長大なトンネルのため排気ガス処理が非常に困難という難点があります。現在は遊歩道の整備等、いろんな利用方法を模索している所である。


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